「人的資本経営」の考え方 ~人材版伊藤レポートのその先へ
1.はじめに
巨大なESG投資の流れの中、今までの財務領域だけではなく、「非財務領域」に大きな注目が集まっています。
環境、人権、企業統治(ガバナンス)…、様々な領域が長期的な企業のリスクファクターとして認識される中、近年注目を浴びているのが「人的資本経営」という言葉ではないでしょうか。もともと企業経営における経営資源は「ヒト・モノ・カネ」と言われてきましたが、近年は「ヒト・ヒト・ヒト」とより人材を重視していく傾向でもあります。
しかし、あえて人的資本経営と大げさに言わなくとも、昔から「人が大事だ」と言ってきたのも事実です。今回は改めて、この人的資本経営について考えていきます。
2.「人的資源(Resource)」から「人的資本(Capital)」へ?
人的資本経営というのは、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」(経済産業省)と定義されています。国際的にもISO30414で人的資本の情報開示ガイドラインが整備されており(2018年12月)、日本においても2020年9月に「人材版伊藤レポート」が提出されました。上場企業においては、2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにおいて人的資本の情報開示が求められており、2022年5月には改めて「人材版伊藤レポート2.0」がリリースされています。
さて、「資本」と聞くと皆さんはどのようなイメージを持つでしょうか。
資本というものは富や価値を生み出していくもの、その意味で人は事業活動において重要な「資本」であり、それ自体新しい概念ではありません。
最近の言い方では、人材について「管理」から「投資」へと切り替える必要がある、だから人的資源(Resource)ではなく人的資本(Capital)なんだ、というわけですが、やや言葉遊びの感が否めません。昔から「事業は人だ」と言ってきたのであって、人への投資を重要視してきたことを否定する人はいないでしょう。
では何が変わったか、といえば、その投資状況を「見える化」せよということです。
例えば、上記のISO30414では以下のような項目について情報開示を求めています。
- Costs(費用):総人件費、外部人件費、平均給与と報酬など
- Diversity(多様性):年齢別・性別の労働者数、障がい者数、経営陣の多様性など
- Organizational culture(組織風土):ワークエンゲージメント、従業員満足度、従業員のコミットメントなど
- …
人への投資や人材ポートフォリオなどはなかなか決算書から見抜くことができません。一方でそういった人への投資が競争力の源泉であることは疑いなく、変化の速い社会に対応していくだけの人的資源がどのように構成されているのか、その会社の人材戦略を見ていきたいという動機があるといえるでしょう。
3.長期的な価値創造のための人材戦略とは
株主目線でみれば、その会社が長期的に価値を生んでいくかどうかを判断するため、経営戦略そのものと合わせて、人材面での体制がしっかり整備されているのかについて興味があるのは当然です。
人材戦略というものは要するに、その会社の人材ポートフォリオをどのように設計し、実現するかということです。グローバル企業になって世界中から優秀な人材を集めたいとすれば、日本独特のメンバーシップ型からジョブ型に変えていく必要があるかもしれませんし、採用形態や育成方法も変える必要があるかもしれません。また、将来的な技術革新に備えて人材の能力要件を定義しなおし、それに適合する人材の採用を進めたり、社内での育成を図っていったりということも重要でしょう。イノベーションをおこしていこうと思えば、多様性のある人員構成を目指すかもしれませんし、よりフラットに議論できる社風の醸成を考えるかもしれません。
要するに、今までのように何となく「人が大切」、「人材育成に力を入れています」といった漠然としたものではなく、企業成長の方向性に合わせてどのような具体的人材戦略をとっているのかを開示していかねばなないということです。先の伊藤レポートにおいても、3つの視点として、
1.経営戦略と人材戦略の連動
2.As is(現実)-To be(目標)ギャップの定量把握
3.人材戦略の実行プロセスを通じた企業文化への定着
が提唱されていますが、同じことを言っています。
一方、世の中の変化に従い人材戦略の自由度というものも大きく変わっています。単純に採用・育成・配置転換などの目標を作ればよいだけでしょうか。経営戦略の「前提」が変われば人材戦略も変わるわけで、「人的資本経営」がそれ単独で独り歩きしないことが大切です。
4.人材版伊藤レポートから一歩進んで
今までのところで、人的資本経営というのはある意味で当たり前のことを言っており、企業は今までも(開示はせずとも)同様のことに取組んできたということを書いてきました。
ここでは、そういった人的資本経営の現代的な課題について2点指摘をしておきたいと思います。
(1)人材も外注する時代に
まず1つ目は、近年は全ての人材を自前で抱える必要がなくなったということです。人材だけでなく、一部の機能についてはプラットフォーム企業に外注してしまうケースも多くあるでしょう。人材もクラウドソーシングといって外注すべき状況もあり、それが可能だということです。
もちろん効率化のための外注だけではありません。米国ではクラウドソーシングを使って企業が解決できない問題を解決していく試みがありますし(例えば https://www.challenge.gov)、LEGOはユーザーを巻き込んだオープンイノベーションで業績を回復させました。人材を社内で育てるだけでなく、外部資源をうまく使っていくというのは人的資本経営においても重要な課題になっていくでしょう。
(2)社員側の意識の醸成が重要である
次に2つ目ですが、人的資本経営というものは企業側が一方的に行うだけでは機能しないということです。伊藤レポートでも「企業文化への定着」として指摘されていますが、いくら企業が競争力強化のために採用強化、育成、リテンションの努力を払ったとしても、それが本当に競争力として機能するためには社員側の意識の醸成が欠かせません。
なぜ企業がこのような投資を行っているのか、社員に対してどのような期待値があるのか、社員側としても単に「研修がある」「異動がある」と受け身で考えるのではなく、会社の方向性を理解し、そのために自分が何ができるか、どうスキルアップすべきかを主体的に考えていけるようになって初めて「人的資本」として機能し始めるでしょう。企業側としても、単純に能力の育成だけを行うのではなく、そういったマインドチェンジを促すようなメッセージを出し続けることが重要で、企業と社員の両方で、競争力を高めていく人的資本経営の文化を作っていかなければいけないということです。
5.おわりに
今回は最近よく聞くようになった「人的資本経営」について考えました。
「人が大事」という意味では特に新しいことがないものですが、長期的な戦略と人材戦略の平仄を合わせていくこと、それを具体的に開示していくことという点にあえて人的資本経営という意味があります。
一方で人材の考え方も社会の変化の中、技術の変化の中で変わっていきます。
単なる人材戦略ではなく、このような社会変化を含めてダイナミックに考えることができるかどうか、そこが問われています。