コラム

正解がない時代の社員教育
エコロジカル・アプローチに学ぶ環境適応力

1.はじめに ~今求められる社員教育とは

日本企業の停滞や人口減少が叫ばれる中、どのように人材の競争力を確保していくかは重大な問題です。次世代を担う人材を自社でいかに育てるか、どの企業も頭を悩ませているのではないでしょうか。

一方、人材育成の体系的なノウハウがあるかといえば、自信を持って「Yes」と言える企業も少ないかもしれません。日本の人材育成は各企業が担当者ごと、属人的な発想で取り組んできたとも言えるでしょう。

さて、今回は改めて現代に必要な社員教育について扱います。近年、スポーツ領域で注目を浴びているエコロジカル・アプローチなども援用しながら考えていきたいと思います。

2.「教えること」の限界とスキル習得

社員教育には、「人材育成」と「人材開発」という二つの言葉があります。
同じ意味に使ってもよいわけですが、あえて区別を強調すると、以下のようになるでしょう。

人材育成(Personnel Training)

  • 主に個々の従業員のスキルと能力を向上させることに重点を置いている(例えば新入社員のトレーニングや、既存の従業員に新しいスキルを教えるなど)
  • 教えるべき内容が決まっており、社員がそれを学ぶプロセスを前提としている。ある程度の「型」「枠」「正解」があり、それを短期的に習得し、成果の達成が期待される

人材開発(Personnel Development)

  • より広範に、組織全体の成長と発展に焦点を当てている(例えば社員のリーダーシップの開発、キャリアパスの設計、組織文化の育成、継続的な教育と学習の機会の提供なども含まれる)
  • 一方的に教えるというよりも、社員自身が主体的にスキルや知識を得て成長することを意識しており、企業はその成長をサポートし、必要なリソースを提供する役割を果たす

大きな違いは2つ、個人/組織の違いと、教える/学びをサポートするという違いです。典型的に言えば、個人にスキルを教えるのが人材育成、組織の発展を意図して各人の学びをサポートするのが人材開発ということになります。

ところで、人材育成は「スキルを教える」というわけですが、世界的には「教える(ティーチ)」という概念は「助ける、学びを促進する(ファシリテート)」という概念に移り変わりつつあります。事実、デンマークではティーチャーという言い方はやめ、ファシリテーターとしての教員養成を実施しています。その理由は、情報が溢れ、決まった正解がない社会においてはもはや「教える」ことに限界があるからです。インターネットも広まった現代社会では、一人の教師が全ての知識を持つことは不可能ですし、意味もありません。むしろ学生自身が主体的に情報を選び取り、解釈し、新たな知識やスキルを構築する能力が求められています。イノベーションという観点からも、決まった「正解」を教えることに意味がないということは理解できるといえるでしょう。

しかし、当然学ぶべき知識やスキルはあり、基本となるスキル獲得においては、やはり「正解」があって、それを学んでいくことが重要なのではないか、「型」を身に付けることが必要なのではないか、という意見もあると思います。その点においても最近では今までとは違うアプローチが取られ始めているので、次節でご紹介していきます。

3.エコロジカル・アプローチの登場 ~教えることのパラダイムシフト

近年注目されている教育理論に「エコロジカル・アプローチ(生態学的アプローチ)」というものがあります。

これはスポーツ指導・運動学習の領域から発展してきたもので、イングランドのシェフィールド・ハラム大学で教鞭をとっているキース・デイビッズが1980年代後半に提唱し始めたものです。このアプローチでは、人のスキル獲得は「環境との相互作用」の中に存在すると考え、その制約条件との関係性の中で、生物が環境適応するようにダイナミックに人は学んでいくと考えます。


私たちは無意識に模範的な行動、理想的な型、正解の動作などが存在すると想定し、それを繰り返すことで身に付けると考えがちですが、そもそもそういった「正解」は存在するのでしょうか。個々人で状況も特性も違う中、万人に適応でき、あらゆる状況で正しいような型は存在するのでしょうか。また、個々人に合ったスキルのあり方には個人差があるにもかかわらず、一人一人にあったスキルの指導は本当に可能なのか?こういった問いをエコロジカル・アプローチは投げかけます。

そもそも私たちは多くの場合、与えられた環境の下、最適な対応を自分で見つけ出し、調整してスキル習得しています。身長が高い人は高い人なりに、低い人は低い人なりに技術を身に付けていきますが、サッカーにせよバスケットボールにせよ、そのスキルの発揮の仕方は異なります。相手チームとの試合の中、自分の特性や周囲の状況と調整を取りながら、自分として最適な動きを自分で見つけていく力を私たちは持っているのです(それを自己組織化と言います)。初めから一般的な「正解」を押し付けるよりも、私たちが持つこの自己組織化の能力を上手く使った方がスキル習得にはよいのではないか、それがエコロジカル・アプローチです。

さて、それでは具体的にはどのようなトレーニングになるのでしょうか。イメージを持ちやすいように、サッカーでの比較研究を紹介しましょう。

サッカーのスキル習得を対象として、伝統的アプローチとエコロジカル・アプローチを対比します。対象者は27歳前後のサッカー初心者、1回1時間半のトレーニングを週2回、12週間行いました。どちらのチームもボールコントロール、パス、ドリブル、シュートなどの練習に取り組みます。ただ、2つのグループでかなりやり方が異なる点がポイントです。

伝統的アプローチのグループ

  • コーチがそれぞれのスキルの模範となる正しいスキルを規定、デモンストレーションで見本を見せ、言語的指導によってズレを修正する
  • 「ボールに対して軸足はここに置く」「蹴り足のここでボールにコンタクトする」「フォームはこう」「体の向きはこう」など

エコロジカル・アプローチのグループ

  • 先述したような正しい運動動作の規定、デモンストレーション、言語的指導は一切なし
  • コーチはそれぞれのトレーニングの目的だけを伝える(シュート練習であれば、「ゴールの隅にシュートを決める」という目的だけ伝える)
  • それぞれの学習者に合わせた制約条件を設定し、操作する(慣れてきたらシュートやパスの距離を変える、角度を変える、など)。不慣れな学習環境を提供し続け、学習者は常に適応しなくてはいけない

12週間のトレーニングの後、グループ間でのテストマッチをフルサイズのコートで行い、ボールコントロールやパス、ドリブルなどの総アクション回数、成功回数、創造的なプレーの回数などを評価したところ、驚くべきことに全ての項目でエコロジカル・アプローチのグループが伝統的アプローチのグループを凌ぐパフォーマンスを見せていました。その結果を以下に示しておきます。


(出典)植田文也『エコロジカル・アプローチ: 「教える」と「学ぶ」の価値観が劇的に変わる新しい運動学習の理論と実践』p.34

さて、この結果を踏まえて、エコロジカル・アプローチの考え方に少し踏み込みましょう。人が学習するときに、環境に合わせて自分が適応していく自己組織化の能力が発揮されるわけですが、それに影響を与えるのは3つの制約条件だと言われます。

個人制約 学習者の身長・体重・柔軟性・癖などの特徴
タスク制約 練習や学習のルールなどに設ける制約
環境制約 グランドは天然芝なのか土なのか、天気は晴なのか雨なのか、学習環境の制約

エコロジカル・アプローチでは人に運動を学習させるのはコーチではなく、この3種類の制約であり、制約の相互作用と考えます。この3つの制約の中で人は「自分に最適な」運動スタイルを身に付けていくのです。コーチの役割は、学習者それぞれのレベルに合わせて制約を設定すること、そして学習者がある程度練習を反復したら、制約を操作することです。

コーチはこうした方がいい、という「答え」は言いません。本当に教えたいこと、伝えたいことは、制約を設けて自然と気づかせるのが望ましく、そこで得た学習効果の高さは研究で裏付けられています。言語的な指導は、学習者が気づいていないアイデアの提示や本人の学習上の探索をサポートするような内容にとどめるべきで、自分で考え探求することを止めてしまうような「正解の提示」は避けた方がよいと言われています。

いかがでしょうか。世界的に注目されているエコロジカル・アプローチは、皆さんの社員教育にとってどのような示唆があるでしょうか。

4.社員教育への示唆

ビジネスではスポーツのような明確なルールはありませんし、成功・失敗の基準も明確ではありません。
ただ、「こういう場合はこうするんだ」と上司がひたすら具体的指示を繰り返しても実践的な応用や成長にはつながらないかもしれませんし、一方で以前のように「まずはやらせてみよう」といった放任主義的なOJTでは成長が間に合わないかもしれません。

その中、先ほどのエコロジカル・アプローチのように、必要なスキルを細分化したうえで、それを一律・具体的に教えるわけではなく、目的を伝えて練習環境(制約条件)を与えながら自己適用させていくというのは面白い発想だと思います。難易度は上司や研修担当者が調整しながら、実践的に学んでいくことで、正解のない現代においてより応用の利くスキルが身につくかもしれません。

情報収集や問題解決、データ分析やビジネスライティングなど、社会人に必要なスキルは多くありますが、結局のところ現場で実践的に活用できるスキルになっていなければ意味がありません。

「教える」から「自己組織化の活用」へ、新しい時代の人材育成としてぜひ検討してみてほしいと思います。

5.さいごに

今回は社員教育へのアプローチについて、正解がない社会においてどうするのか、改めて考えていきました。

スキルは与えられた環境のなかでどのようにタスクを実行するか、その関係性の中で育まれるという生態学的な発想(エコロジカル・アプローチ)は、変化に適応しなければいけないといわれる現代に非常にマッチした考え方といえるでしょう。今はまだスポーツの領域での活用が殆どですが、今後はビジネス全般にも影響する考え方かもしれません。

社員教育は「人が学ぶということ」そのものに真剣に向き合わなければいけません。今後も最新の知見を踏まえながら、常にアップデートしていく必要があります。

※参考:植田文也『エコロジカル・アプローチ:「教える」と「学ぶ」の価値観が劇的に変わる新しい運動学習の理論と実践』

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