「今、ここ」のウェルビーイング戦略
今を生きる社員に向けた「意味と要素」
1.はじめに ~根源的な問いかけ
「ウェルビーイング(Well-being)」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
直訳すれば「良く生きること、良く在ること」ですが、社会的に以前から注目されており、企業経営でも採り上げられることが多くなりました。そもそも私たちが働く究極の目的は「良く生きること」ともいえますし、経済成長(GDPの成長)だけでない世界観が必要ではないかという視点もあるでしょう。
ただ、人生に対する満足度というものは主観的なものです。全く同じ状況であっても環境が変化する中で評価が変わることもあるでしょう。例えばブータンでは国民総幸福量(GNH)を重要視しており、経済水準に比べて国民の幸福度合いが高いことで有名でしたが、近年そのランキングを大きく落としています(2013年:世界8位→2019年:95位)。かつてブータンの幸福度が高かったのは、情報鎖国によって他国の情報が入ってこなかったからであり、情報が流入して他国と比較できるようになったことで幸福度が大きく下がったと指摘されています。
さて、近年の日本では経済の停滞に加え、終身雇用の揺らぎ、社会格差の拡大、コロナ禍に伴うコミュニケーションの断絶など、生きることに対する不安が増しているように思います。
社員のウェルビーイング(よく生きること)にどう向き合うか
今の不安定な世の中において、改めてこの根本的な問いかけを考えてみることも重要かもしれません。
今回はこのウェルビーイングについて企業が具体的に何ができるのか、考えていきましょう。
2.ウェルビーイングの歴史と内容
そもそもウェルビーイングという言葉はどこから来たのでしょうか。
これは1925年にカナダの団体(Canadian Public Health Association)が「健康状態」であることを「単なる病からの自由ではない、ウェルビーイングな状態」と定義したことから始まります。この報告がその後引き継がれ、1947年のWHO(世界保健機関)憲章では「健康」は定義のように定義されました。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.
(健康は、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない)
面白いのは、健康というのは肉体面だけでなく、精神面、そして社会面で考えるべきだという主張で、確かに私たちは心身の健康と社会的つながりなどの総体によって幸福を感じるものです。
2015年に国連で採択されたSDGsにおいても、「目標3:すべての人に健康と福祉を」の原文は「Good Health and Well-being」となっており、ここでもウェルビーイングは注目を集めています。
ところで、ウェルビーイングの研究で最も有名なものと言えばポジティブ心理学の提唱者で有名なマーティン・セリグマンのものでしょう。セリグマンはその研究の中で「ポジティブ心理学のテーマはウェルビーイングだ」と書いています(『ポジティブ心理学の挑戦 “幸福”から“持続的幸福”へ』)。彼によればウェルビーイングを構成する要素は以下の5つとされ、これはPERMA理論と呼ばれています。
ウェルビーイングの構成要素:PERMA理論
構成要素 | 内容 |
---|---|
P:ポジティブ感情(Positive Emotion) | 「快」の感情。楽しみ、歓喜、恍惚感、ぬくもり、心地よさなど自分が感じるもの。 |
E:エンゲージメント(Engagement) | 没我の感覚(フロー)。音楽との一体感や仕事に集中して時間が止まっているような感覚。自分の強みや才能を活かすことが必要。 |
R:関係性(Relationships) | ポジティブで良好な人間関係、愛されること |
M:意味・意義(Meaning) | 有意義な人生。自分よりも大きいと信じるものに属して、そこに仕えるという生き方。宗教、家族、政党、ボーイスカウトなど |
A:達成(Achievement) | 達成と成功。達成するための人生もある。 |
なお、セリグマンの他にも持続的ウェルビーイングの研究は多くあり、有能感や自尊心、レジリエンス(心理的抵抗力・回復力)、楽観性など様々な構成要素が指摘されています。皆さんはどのような要素が自分のウェルビーイングにとって重要だと感じるでしょうか。
3.具体的に企業は何に取り組むべきか ~セリグマンのPERMA理論から
社員のウェルビーイングというものは個別具体的です。例えば米国で9.11の同時多発テロ事件が起こる前と後では「ウェルビーイング」の概念は大きく変わったに違いありません。コロナ禍の前後でも社員の不安は根本的に性質が変わったのではないでしょうか。
私たちはビッグワードとしての「ウェルビーイング」ではなく、「今、この瞬間のウェルビーイング」を考えるべきで、変化する世界の中で社員にどのように「良く生きること」をサポートできるかを考えていくべきでしょう。
それでは企業は具体的にどのような観点でウェルビーイングを考えていけばよいのでしょうか。ここでは先述のセリグマンのPERMA理論を参照しながら考えてみましょう。
(1)ポジティブ感情(Positive Emotion)
まず、基本の「快」の感情にフォーカスしてみると、楽しみや心地よさの提供ということが思いつきます。オフィスのリニューアルや働きやすさ、福利厚生を見直すことなどもよいでしょう。
また、この領域で重要なことは、社員の基本的な経済状態(収入)を改善することです。ある経営者の方が、「年収で600万円くらいのゾーンに入ってこないと、理念やバリュー(行動規範)を守ろうという気にもならない」と話していたことがありますが、確かに衣食足りてこそ理念などに目が向くのであって、日々の生活の余裕というものは大切なものです。これは単純に給与を上げるという話ではなく、早い段階で人材育成投資を行い、その年収を与えられる程度のスキルを身に付けさせる、実績を上げさせるということです。とにかく社員の皆さんにも頑張ってもらって、収入を上げられるだけのレベルに来てもらうということが会社の経営理念の浸透などにも影響してくるというのは、基本的ながら見落としがちなテーマであろうと思います。
(2)エンゲージメント(Engagement)
次に、フロー状態に入れるような仕事を与えてあげることが重要です(ここでのエンゲージメントはいわゆる会社への貢献度とは異なる意味ですのでご注意ください)。これは強み・才能にフォーカスするということ、その人の「好きの力」を信じるということです。今の時代、特にイノベーションが求められる領域ではこの「個人の才能」に頼らざるを得ないところが大きいもので、社員個々の才能にフォーカスを当てることは立派な競争戦略です。課業配分が課員の強み・弱みに沿った形になっているのか、課員の強みを最大限発揮できる形になっているのか、ぜひ検討してみましょう。
(3)関係性(Relationships)
私たちはコロナ禍を経て、対面におけるコミュニケーションの重要性を学びました。良い関係性を築くためには、お互いをよく知ること、そしてどこかに本人が安心できる居場所(臨場感を共有できる場所)を作ることが重要です。それは職場で毎日顔を合わせることかもしれませんし、社内での部活動やオフ会かもしれません。その中で相談できる相手を見つけること、信頼できる仲間を見つけることがとても重要です。
また、近年はD&I(ダイバーシティ&インクルージョン)の文脈のなかで帰属意識(Belonging)の重要性、つまり自分が組織の一員として受け入れられているという実感を持つことの重要性も指摘されています。そのためには異分子を排除しないオープンさや公平性も求められていくでしょう。
(4)意味・意義(Meaning)
人間はなぜそれをやるのかを理解すれば主体性が上がるものです。同じことをやっていても、
- 石を積んでいるのか
- 建物を建てているのか
- 大聖堂を作っているのか
また、この文脈ではもともとミッション・ビジョンが重視されてきましたが、最近はパーパス経営が注目されています。両者の違いをあえて言えば、自分たちで「目的を選んでいる意識」の強さと言えます。単純な使命感ではなく、まだ社会が気づいていないような新しい価値を自分たちは選び、主張していくのだという強い意思がパーパス経営のポイントであり、企業としてはそういった新しい社会変革の志を提示していく必要があるかもしれません。
(5)達成(Achievement)
最後に、やはり一定の達成をしていく必要があるでしょう。一般的にスモール・ウィンを積み重ねることで自己効力感を上げていくことができます。一方、何をしても成功しない、現状を変えられないということが続けば初めから諦めてしまうような負け癖がついてしまうものです(PERMA理論のセリグマンはもともと「学習性無気力」というテーマで有名になった方ですが、私たちは無気力や諦めることを「学習」してしまいます)。
こうした「達成」を積み重ねるためには、ややストレッチな課題を与え、それを達成する経験を積ませていくことが必要でしょう。努力して達成するという良い循環を起こせるようになれば、本人にとっても企業にとっても嬉しいことです。また、より大きな視点で言えば、やはり経営戦略をしっかり作り上げることがとても重要です。筋の良い戦略を打てば勝つ確率が格段に上がり、定石から外れた戦略を打てば何をやっても上手くいかないわけですから、社員全員の「達成」、ひいてはウェルビーイングに影響するという意味で経営者の責任は非常に大きいのです。
5.おわりに
ウェルビーイングは「良く生きる」「良く在る」という大きな概念です。それは単に心身の健康というだけではなく、社会的つながりの中で規定されるものと言えます。そして社会が変化していく中では当然変わっていくものと言えるでしょう。「これをやっておけば大丈夫」というのではなく、社員の状況や社会の状況に応じて、自社として何ができるかを考えていくこと、それはまさに企業の競争力になっていくでしょうし、様々な工夫が出来ることのはずです。
これは企業の社風にもよるでしょうし、社員が会社にどのようなことを期待しているかによっても変わってきます。今のi自社にとってのウェルビーイングとは何か、是非皆さんで検討し、より強い企業にしていってほしいと思います。